昭和41年06月19日 夜の御理解



 福岡の渡辺先生がお参りをして、お届けをされるんですね。今朝起き掛けに、いつも目が覚めたか覚めんかという頃に、私はいつも大きなお知らせを頂きますと、言うてから、言うておられましたが、私が生かされて生きておるということを頂いた、ね。そしたらもう、今日一日ここへ参らして頂きます間、家でもどこでももう何もかにもが、私が生かされるための一切である、ということになってきた時に、いわゆるその有難さというものが、実感的になってきたとこういうわけですね。
 私それを聞かせて頂いて、ははぁそれは素晴らしい言葉だなと思ったんですよね。私共が生かされて生きておる、というとえらい漠然となるんですね。だからそれをお道では、まぁお道でなくてもまあそう、私共がこうして本当に天地のご恩恵によって、生かされて生きておる。私共が生かされて生きておるというのではですね、おかげの方も実感も漠然としてくるです。それども私一人の為に、例えば雨がありお天気があり、この家がありこの布団があり、この電車がありというわけなんですね。
 もうそしたら、もう見るもの聞くもの一切が、私が生かされるためにと、それが今日一日、私を有り難いものに致しましたという、それを聞きながら私も思うた。成程ね私共が私共が生かされて生きておると、確かにそうなのですけれどもやはり、私共各々の頂き方としては、私のためのそれだと。私のための例えばお湿りであり、お天気であるということになってくる時です、いかにまぁいやな、ついいやなお天気という、そのいやなということがです、もう私のために天地が、こうお湿りを下さっておるんだと。
 それが実感できる時です、私本当に渡辺先生が今日実感しておられるような有難さが、もう今日はそのことを、涙をぼろぼろ流しながら、お届けをされるんですよ、ね。神様のお言葉の内容の深さというかね、確かに私共は天地のご恩恵によって、生かされて生きておるのだけれども、そう言わば誰でも、誰にでも頂いておるとじゃない、誰でも頂いとるのじゃからという気がする訳なんですね。
 私一人じゃなかから、私一人でお礼を申し上げんでんという気がする。言うならば、まぁする訳なんですね、ね。ところがその、私が生かされて生きておるということになる時です、私一人のために天地が動いてござる。またそれも真実なのですからね。ですから、そういう頂き方を、私のためのお湿りであるという時に、お天気でであるという時に、お湿りお天気も有り難いのなら、またお湿りも有り難いのだということが実感して頂けれるのじゃないかと思うですね。
 何とうはなしに、梅雨のじめじめしたその、こう言う様なお天気の時には、何かさばさばとした、何かさらっとした、雰囲気やらおかげを頂きたい。気分の上だけでもそのそういうおかげを頂きたい。勿論そういう努力も必要なんですよね、けれども先ず心の中からです、私のためのこれだという時に、私は梅雨もまた楽しい、雨もまた有り難いということになるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。